褒めても「すいません」が口癖の『すいませんビト』は愛しい存在なことに気づいた件。
褒めると「ありがとう」ではなく「すいません」というヒトの話題。
どうも、fkdです。今回も、ちと変な話を繰り広げてみます。マーケティングの話題から離れてますけど次から書きますのでご了承ください。笑
突然ですが、ヒトは、二つに分かれます。
- 褒められると「ありがとう」という『ありがとうビト』。
- 褒められると「すいません」という『すいませんビト』。
の二つ。※他のパターンのヒトもいるよ、という意見は一切聞かない。絶対にどっちかにして。
今回は後者、「すいませんビト」にフォーカスを当てた話をします。
すいませんビトは、褒められたのに何故「すいません」と言うのか。
僕は完全に「ありがとうビト」です。だから、「すいませんビト」の気持ちが理解できませんでした。『褒められてるんだからありがとうでええやん』と思います。他のありがとう人の方も、同じ気持ちでしょう。
しかし今回は「すいませんビト」がなぜ褒められても「すいません」というのかを考えてみました。
褒められたときに「すいません」という理由は、大きくわけて2点と推察します。
- 普段からすいませんという機会が多いのでとりあえず(嬉しくても)反射的に言ってしまう。
- 「私なんかのためにそんなお言葉を頂戴してすいません」という超卑下。
「すいませんビト」に、計算高くすいませんと話すヒトはあまりいないと思います。
どちらかというと1の反射的というのが多いかもしれません。「あああああああ、す、す、すいませぇーーん!」という感じの。
すいませんと言ってしまうのは、昔から怒らがちで習慣化したとか、元々の性格とか、まあ色々事情はあるだろうと思いますが、以下の記事に文化的な視点からの理由がまとまっています。
https://laurier.press/i/E1362458916343
・「その場を平和に収束させること」を何よりも重視する
・非を認めて謝る『潔さ』が美しい、という認識がある
・潔く謝った人を責め立て、責任を追及するようなことをしない
・自分のほうが正しい、と主張することは利己的で見苦しい、と考える
・相手の立場を思いやり、共感する性質が強い
・お互いの“メンツ”を立てることを重視する◆参考:「『すみません』の国」 榎本博明著 日本経済新聞出版社
要は、「すいませんビト」は、利他的で、思いやりがあり、平和主義であると言えます。
今どき、こういうアイデンティティの方ってすごく少なくないですか?
最近はインスタ映えを気にしてルールを守らない若者が増えていることからもわかるとおり、利己的で目立ちたがりで共感を押し売りするヒトが増えています。
もちろん、それは一部なこともわかってあえて強調しています。
であればすいませんビトもあえて強調させてもらいます。
繰り返しになりますが、僕も利己的なありがとうビトなので、すいませんビトに対し「なんで人の好意をすいませんで受け流すんだ?」と思ってましたが、利他的であるすいませんビトをもっと大事にしようと思いました。
すいませんって言われると褒めにくい。
でも、褒めても「すいません」と言われると、(褒めたらダメなのか…)と勘違いしてしまい、褒めにくくなるのも確かです。すいませんは、本来謝罪で使う言葉ですから。
そして、すいませんビトは、反射的にすいませんと言う自分が嫌なのかもしれません。実際、『すいません 口癖』で検索してみると、ネガティブな記事が沢山出てきました。
みんな、(またすいませんと言ってしまった…)という後悔が少なからずあるようです。
しかし、「すいません」は、とてもおしとやかな返しです。「ありがとうビト」の「ありがとうね!」に比べてよっぽど心に響いている気がします。
ありがとうビトは、すいませんビトに歩み寄るべき。
結論、すいませんビトの褒められた時の「すいません」は習慣的で反射的なのでそういうものなのです。そして、そこには間違いなく嬉しさが含まれているのだと思います。
「そこは、すいませんじゃなくて、ありがとうでしょ。」
そんな言葉は不要です。そう受け取ればいいのですから。
もちろん、何でも「すいません」と返答するのは少しわかりにくいです。しかし、ありがとうビトからすいませんビトに歩み寄る努力、利他的になる部分が少し足りない世の中なのかなぁと思ったfkdでした。
「すいませんビト」を考える記事っていくら探してもなかったので、書いてみました。つか、そんな言葉ねぇけど。
それでは、んちゃ。